インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
ゾーンの入り方
ゾーンに憧れる。
10年以上も走っているのにゾーンに入れたことがない。
一度入ってその異次元を体験してみたい。SF映画のワープシーンみたいに、目の前の光景がぎゅいーんと後方に引き延ばされ、超光速で突き進む感じになるのだろうか。
トレイルランニングのトップ選手がゾーンについて語っていた記事を読んだことがある。走っていても疲労を感じず、山と一体になるとか、山に溶けている感覚になるらしい。そして気づいたらトップでレースをフィニッシュしている。
走ることに全集中して行為そのものになっているのかもしれない。鍛え上げられた肉体とそれに伴うメンタルと凄まじい集中力が完全に噛み合わなければできないだろう。
僕はと言えば、肉体もメンタルも集中力もそのすべてが欠けている。
例えばこんな調子だ。
レーススタート前→「まわりのおっさん達みんな強そう。僕では無理だ……つうかすでにまわりのおっさん臭いんだけど、どうして……」
スタート直後→「まだ5kmしか走ってないのに辛い。帰りたい……こんなときは楽園を想像するんだ。猫とお昼寝したい……猫のお腹に顔を埋めてスーハースーハーしたい」
レース中盤→「ヤバい、脚が攣る。喉渇いたけど水がない。辛い……辞めたい。もう猫を吸うしか方法はない。想像でいいから猫吸いするんだ。スーハースーハー!」
レース終盤→「猫のお腹をスーハースーハー!(ガンギマリの目)どうしてこんなにいい匂いがするんだろう……」
フィニッシュ後→「猫のお腹を吸っていたらいつの間にか終わっていた……」
こんな感じで鍛錬が足りないので常に辛く、そのくせ煩悩に逃避するスキルだけは爆上がりし、ついにエア猫吸いでトリップできるスキルを身につけている。これではゾーンに入れず、山と一体化できるはずもない。
僕は半ば諦めながらもゾーンに入るための方法を探っていた。
ネットや書籍を調べていると、ゾーンの前段階である「フロー状態」にヒントが隠されている気がしていた。
フローの概要を簡単に抜粋する。
――フロー状態は、目の前の活動に完全に没頭し、時間を忘れて高い集中力を発揮するポジティブな状態。
ゾーンはフローの先に訪れる究極の状態やそれによるパフォーマンスの最高化を現す。
フロー状態はすぐに想像できた。仕事や作業に集中していたらあっという間に時間が経っているやつだ。
ゾーンはその先にあるらしい。フローの先に訪れる「究極の状態」「それによるパフォーマンスの最高化」。曖昧な表現でなかなかイメージが掴めない。
……ん? でもこれ、体験したことがあるかもしれない。滅多にないけど確かにある。過去を振り返る。
小説を書こうとする。
大まかにテーマを決める。漠然としたアイデアをとにかく書き留める。ログラインを決める。簡単にプロットを組もうとするが上手くいかない。資料を読みまくる。変に知識が入ってきて収拾が付かなくなる。プロットは置いといて執筆してみる。なんかしっくりこない。振り出しに戻ってやり直す。自分でもなにを表現したいのか分からなくなる。開き直って全然関係のない映画を観たり本を読んだりする。上裸でジョギングして全身に太陽光を浴びる。すべてを忘れてとにかく寝る。
なにかが発酵した気がするけどその正体はわからない。
翌日、いつものドトールで執筆する。
イヤフォンで音楽を聴きながら書いていると、アイデアと資料から得た知識が不思議と絡み合って筆が進む。五感や精神で一心不乱に書いている。なぜそのテーマを書こうとしたのか腑に落ちる。自覚していなかった深層心理が姿を現す。創造した物語の中を彷徨い、思ってもみなかった答えを導き出す。自己の殻が破れて新しい自分と対面する。
聴いていた音楽はいつの間にか終わっている。
このとき僕は確かに、ノートパソコンと一体化し、文字をひたすら出力する装置になっている。もしかしたらドトールの机や椅子やいつのまにか隣に座ってたおっさんとも一体化してるかもしれない。
山や大地との一体化ほどかっこよくはないけど、これは僕なりのゾーンなのだ。
……それにしても、これをトレイルランニング中に落とし込むのか。いや、無理だこれ。トレランを職業にするくらいの覚悟で臨まないと……
僕は僕なりの陰鬱な文系ゾーンでいい。体育会系ゾーンは諦める。それが分相応ってやつだろう。
僕は心地よい諦念と共に家に帰り、猫の腹に顔を埋めて大きく深呼吸した。

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