インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
サブスリー中年ランナーの日課ジョギングログ(後編)
浜田山駅へ続く道路に差し掛かると喫茶店から焙煎した珈琲の匂いが漂ってくる。いつか入店したいと思っている珈琲の名店だが、いつも上裸の汗だくなのでその甘い香りを肺一杯吸い込むだけで我慢するしかない。逆に絶対に吸い込みたくないのが煙草の煙だ。ここいら一帯は杉並区の条例により路上禁煙は禁止されているが出勤前に川を眺めながら吸っていたり散歩しながら吸っている輩は多い。江西は禁煙ファシズムではない。喫煙の自由を侵害するべきではないという思想を持っているゆえ彼らはまだ許せる。質の悪いのは自転車を走らせながら煙草を吸っている輩だ。前を走られると延々と副流煙を吸い込み続けることになる。抜こうとペースを速めれば呼吸が荒くなってさらに副流煙を吸い込むことになる。無間地獄か。俺が前世でどんな非道をおこなったのか教えてほしいと江西は顔をしかめている。こいつらのムカつく点は大抵が指に挟んでいるだけだったり咥えているだけで吸えていないことだ。ならばなぜ煙草に火を付けているのか無差別テロなのか俺への個人的な恨みなのか。ただ阿呆で何も考えておらず惰性で生きている無能なだけだろう。それを証明するようにもう片方の手にはスマホが握られていて蛇行運転しているような救いようのない輩なのだ。上裸のほうが100億倍迷惑を掛けていないのにどうして俺のほうが異常者をみるような視線を送られるのかと江西は憤り、上裸はクリーンなエコで時代に即していると脳内は錯綜しはじめる。これも毒薬と同類である副流煙の影響に違いない。
喫煙チャリを追い抜いてしばらく走ると高井戸駅を南北に貫く形で通っている環八道路に差し掛かる。自動車の通行量は多く大抵ここで信号待ちになる。江西は頑丈そうな電信柱の陰に身を潜めて唐突な事故に備える用心深さを垣間見せる。生涯一度も交通事故に遭ったことがなく起こしたこともないのはこういった行為の積み重ねからだろう。信号が青に変わったので走り出し駅前商店街の一画に入る。焼き鳥の香ばしい匂いが漂ってくる。店先で店主が丁寧に焼いていて味は絶品だ。一本から気軽に買えてその場で食べることもできる。過去に一度誘惑に負けてランニング中にレバーとネギマを買ってしまったことがある。500mほど先にあるベンチで食べようと走っていると上裸で両手に肉を持つ狩猟帰りの原始人が完成してしまった。あまりに時代に即さない野蛮な行為だと自省しそれ以降は自粛している。
すぐに神田川に合流して川沿いをひた走るとすっかりランニングフロー状態になっていて辛さも気持ちよさも感じない。走っているという意識すら希薄になって時間の感覚すら消失する。まるで瞑想だ。
朝走るようになったのは単純にそのほうが体調がよくなると気づいたからだ。朝が弱いのでいつも夕方に走っていたのだが、これだと交感神経が優位になりつづけて寝付きが悪くなっていた。夕方以降にカフェインを摂ると覚醒が続いてしまうので控えたほうがよいという説とよく似ている。運動をすれば疲れて眠くなるという者もいるが、江西は十五年も走ってきたからか無駄に屈強であり一日15kmほどのランニングはもはや覚醒しかもたらさない。ならば朝のジョギングによって身体を覚醒させたほうがよい。愚鈍な脳にも酸素や血液がまわって執筆仕事もはかどるようになった。
神田川を走り続けて下高井戸おおぞら公園に入ると園内を一周して南下する。突き当たった玉川上水永泉寺緑地沿いを走って再び14号線に合流して自宅方面に戻っていく。環八道路を越えるとほぼ毎日参拝している第六天神社が見えてくる。信心深い江西は参拝の作法に並々ならぬこだわりがある。上裸のまま鳥居を潜り拝殿まで突き進むと階段を上り鈴を鳴らして素早く二礼二拍手をして目を瞑り心の中で、いつもありがとうございますと神に感謝してから「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」ととっくに暗記済みの祝詞を唱える。近頃はどれだけ早く祝詞を唱えられるか日々RTAしていて「ハラサカムサキタマッ!(本人は省略せずに発音しているが素人にはそのようにしか聞こえない)」などと二秒ほどで唱えられるようになった。これがもしなろう小説の世界ならば「あの強力な魔法詠唱を一瞬でっ……」などと凄腕魔道士認定されているだろう。摂社への参拝も忘れずにおこなって境内を出る。
戻ってきた高井戸公園の中に入りトレーニング健康器具が集まるエリアの懸垂バーにぶら下がって懸垂を15回おこなう。反動は決して付けずに腕だけの力を使って身体を引き上げる。
ここからは往路とコースが被る。鬱蒼とした玉川上水沿いの遊歩道に入ると相変わらず涼しい。自宅近くまで戻ってくると腰とランパンの間に挟んでいたボタンシャツを取り出して羽織り住宅街へと入っていく。自宅アパート前でランニングウォッチの記録を止めて骨伝導イヤフォンの電源を切る。階段を上がって自宅の扉を開けて中に入る。サングラスとイヤフォンとランニングウォッチを軽く水洗いし、しつこく振って水を払うと故障せずによくもつ(骨伝導イヤフォンは水泳用の完全防水のものを使っている)。やはり塩分を多分に含む汗の浸食が一番の大敵だと思う。喉が渇いている場合は経口補水液を自作する。100%のフルーツジュースを炭酸水で割って塩を入れてかき混ぜて飲む。次に朝食代わりのプロテインを作る。シェイカーに300ccの水を注ぎプロテイン20gとオーツパウダー40gとクレアチン5gの粉末を入れて激しくシェイクして飲む。これで約二時間後の昼食(バランスのよい定食を摂るようにしている)まで腹は持つ。食事を細かく分けるようにしていると血糖値が安定するからか体調がよい。
脱いだ衣類を洗面台に入れて水を張って洗剤を少量垂らして漬け置きしておく。シャワーを浴びて外出着に着替えてノートパソコンなどをザックに入れて仕事に行く準備をする。つけ置きしておいた衣類をもみ洗いしてからよく濯ぎ軽く絞って洗濯機に入れて脱水する。残った準備をしたりスマホを開いてTwitterなどを眺めていると脱水が終わっている。それをベランダへ持って行って干すと仕事へ向かう。こうして一日が始まる。

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