インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
自転車との付き合い方(後編)
親友はロードバイクのレースに出場するようになっていた。楽しそうだったが、参加しようとは思わなかった。僕はやはりトレランが好きで、強くなりたいのもトレランだったからだ。
ロードバイクに取り憑かれた二年間で僕は屈強な脚を手に入れていた。
トレイルに入って長距離を走っても、下りを爆走しても故障しなくなった。やはり土台となる基礎的な脚力が足りていなかったのだ。
トレランのレースに出場すると、今までは考えられなかったような好成績を残すようになる。日本山岳耐久レース(総距離70km強、累積標高4500m)では、今までフィニッシュするまで17時間かかっていたのが11時間になった。完走すら難しい100マイルレースを上位5%のリザルトで完走できるようになった。
僕はこの経験から、レースで好成績を残したいけど陸上経験や才能がないひとには、とにかくロードバイクを勧めている。怪しい新興宗教団体が壺や仏壇や教祖の風呂の残り湯を売るかの如くだ。ロードバイクを信仰し、愚直にひたすら漕げば怪我から解放され、圧倒的な持久力を手に入れられる。ロードバイクでマニ車を回せ。急がば回れで結局これが一番早い。
後に吉祥寺へ引っ越し、荒サイから離れると、ロードバイクに乗る機会は減っていった。それは恐怖心からだった。都内の道路を走っていると正直命の危険を感じる。
車道の左端を走っているのに、高速で走る自動車にスレスレで追い抜かれるのは日常茶飯事だ。肘が弾かれたこともある。ハンドルのバーエンドに付けているバックミラーに当てられ、明後日の方向に曲がっていたのをみたとき、身体が萎縮して頭が真っ白になった。その後に防衛本能で凄まじい怒りが湧き上がってくる。
この感覚……なんだっけ? あれだ……暴力! 圧倒的暴力に遭遇したときと同じだ!
この治安の良い日本で、身の危険を感じることは滅多にないと思っていたが、そんなのは幻想で、かなり身近に潜んでいたと実感してぞっとする。
一番納得できないのは気をつけていてもどうしようもないことだ。
スマホを見ながら運転していたり、歩行者や自転車のことなんてゴミだと思って適当に運転している人間に後ろから引っ掛けられた時点で人生が終わる。
登山に行って遭難して死ぬのはいい。道に迷ったり滑落したり天候の予想が甘いのは自分の選択だからだ。
どうしてこの不条理な暴力に法的な対策がないのだろう。社会のバグじゃないか……と思っていたら、ようやく数ヶ月前に自転車の追い抜きルールが厳罰化された。僕の感覚は異常じゃなかったみたいで少し安堵した。厳格に取り締まってほしいし、願わくばすべての自動車が全自動自動車になってほしい。
この圧倒的暴力追い抜き行為以外にも恐怖を感じる場面はある。
路駐している車を追い抜こうと後方確認をしてから手信号を送っているのに、クラクションを鳴らしながら二重追い越しをしてくる。
交通量の多い道路をなるべく通らないように細い生活道路を選んでいるのに、対向車が
徐行もせずに突っ込んできて歩道へ追いやられる。
それなのに車はなんか年々デカくなってくる。
自転車の居場所はないと身をもって痛感させられる。そのうち轢き殺されると恐怖を植え付けられる。
僕はときどき車を運転するが、歩行者や自転車に恐怖を抱かせないように、可能な限り譲り、かなり大げさに車間を取るようにしている。なによりも徐行だ。これを心がけると最悪は防げる。
これは自転車に乗っていて、歩道を走らなければならないケースでも同じことが言える。できるだけ降りる。狭い歩道ですれ違うときや追い抜くときは、漕がず、ブレーキに手をかけていつでも止まれるようにする。
自動車が自転車を威圧して排除するように、自転車が歩行者に対して同じことをするのはあまりにも悲しい。
僕はいつも「暴力はなにも生まない! 悲しき暴力の連鎖を止める!」と使命感に燃えながらママチャリを走らせている。
そんな経緯があって、自動車の恐怖と暴力に圧倒された僕はロードバイクにあまり乗れなくなり、近所をママチャリ(12000円で買った前カゴが付いたクロスバイク風ママチャリ)で走るばかりになってしまった。
毎日5km以上は走っている。通勤がある日だと15kmほどだろうか。ちょっとした買い物や用事に使える自転車はやはり便利だ。
最近、こういった生活と密接した自転車も楽しいと思えるようになってきた。
これはロードバイクの経験で培われ、還元されたものだと思う。
ママチャリでも適切なポジションを取れる。サドルを上げて跨がり、漕いでペダルが一番下になったときに膝がほんの少しだけまがるくらいがちょうどいい。ママチャリでもそれなりのスピードが出せるし何よりも楽に乗れる。
最低限のメンテナンスができるようになった。パンクを直せるし、チェーンを掃除して注油できるし、ブレーキが減ったら交換できる。よく乗りっぱなしで、チェーンはさび付き、自転車からキーキーと軋む音を出しているひとをよくみかける。メンテナンスという概念がない。なにより事故と隣り合わせで危ない。自転車屋に持って行って最低限のメンテナンスをして労ってあげてほしい。
と言っても、僕もロードバイクに乗るまでは同じような感覚だったから、偉そうに指摘できない。子どもの頃から高校生までは自転車に乗っていたが、大学の通学から原付になり、その後は車に乗っていた。自転車なんて疲れる乗りものはできるだけ乗りたくなかった。
僕は、ベルギーの映画界の巨匠ダルデンヌ兄弟が大好きだ。先日も新作を劇場へ観に行った。彼らの作品は社会の底辺の市民生活を精密に描いて社会構造に疑問符を投げかける。ケンローチ監督や是枝監督と似ている部分があるというと作風がイメージしやすいかもしれない。
彼らの作品のなかで「少年と自転車」は特に気に入っている。
このエッセイを執筆するに当たって再視聴してみた。
少年はいつも自転車で街中を駆け抜けている。彼は家庭の事情が複雑で、保護施設に住んでいる。少年に親しみを抱いた美容師の女性は彼の面倒をみようとするが、心を開いてもらえない。少年は犯罪に加担して警察に捕まってしまう。女性は少年の身柄を引き取り、被害者の賠償金を支払って示談する。
信頼関係を得たふたりは目一杯笑みを浮かべながら川沿いの広い道を自転車で走る。

僕はその美しい光景を見て、信頼や自由ってこういうことなのだと理解できた気がした。
少年は、「その自転車のギアは何段なの?」と聞いて、女性は「8段」と答える。少年は「僕の自転車の倍だ! 交換して!」と自転車を交換するが、サイズが大きすぎて満足に漕げずに進めない。
あ!!!!! ギアの話をしてる!!!!!
親友と荒サイをロードバイクで走っていた記憶がよみがえる。
男は年齢問わずに凄い段数のギアが好きで、そしてもれなく馬鹿なのだ。これはベルギー人も日本人も変わらないのかもしれない。
平和な世界ではみんなギアの話をする。その普遍性に嬉しくなる。
思うに僕は、自転車という素晴らしい乗りものが市民の生活に溶け込み、こういった平和な光景がどこにでもみられるような世界を願っているのだろう。

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