ランニングエッセイVol.31「昔は<体調が>よかった」

インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。

昔は<体調が>よかった

 子どもの頃に住んでいたマンモス団地はすべてが漂白されていた。
 建物は綺麗に塗装され、危険な場所は徹底的に整備され、とってつけたような小綺麗な公園が増えていた。ひとけはあまりなく、見かけてもほぼ老人で、彼らはベンチに座って虚空を見つめている。
 この団地には、生まれてすぐに引っ越してきて、二十年くらい住んでいた。
 当時を思い出そうとすると鬱屈とした気分になる。濁った池の淀みの中に沈殿しているようで、次第に息苦しくなってくる。
 でもどうしてそんな場所に戻ってきてしまったのか。
 実家で暇を持て余し、ふらっとランニングするつもりが、もっとも沈鬱とする場所に足を踏み入れてしまった。

 団地内をゆるく走る。
 商店街に入る。当時賑やかだった商店街のシャッターのほとんどは閉まっている。郵便局はかろうじて残っていたが、地方銀行は消えていた。理髪店と歯医者しか営業していない。喫茶店も駄菓子屋も本屋もすべてが消滅していた。本屋に至っては、そこにあった建物ごと取り壊されていて、殺風景な公園が広がっている。僕はこの本屋で初めて本を買った。楳図かずおの「神の左手、悪魔の右手」というホラー漫画だった。子どもであろうと容赦なく殺され、切り刻まれる。そんな子どもを守ろうとする大人は悪魔に蹂躙され、肛門から内臓が次々と飛び出している。姉が途中の巻まで買っていたのだが、あまりの恐ろしさに根を上げてしまった。僕は先が気になりすぎて、その先を引き継ぐ形で最終刊まで購入し、すっかりホラー漫画にはまってしまった。当時はそんな漫画がレーティングもなしで売られていた。
 住んでいた号棟まで歩くことにした。
 途中にある大きな公園内の殺人ブランコはやはり消えていた。四人乗りのブランコで、極限まで漕ぐと頭上のポールに頭がぶつかって流血する。幾人もの小学生の頭をかち割り、あるいは命を絶ったと噂されていた曰く付きのブランコだった。
 明らかな設計ミスでやたらと頭をぶつけやすい殺人ジャングルジムももちろん消えていた。そこには無味無臭の謎動物の跨がってゆらすだけの安全で何も面白くない虚無の乗りものが鎮座していた。
 住んでいた号棟の前にはWindowsの壁紙みたいな広大な丘が広がっていた記憶があったが、そこにあったのは少しの盛り上がりがあるだけのしょぼい芝生だった。相当美化されていたらしい。あと、当時より僕の身体は成長しているし、運動能力も高くなっているから、スケール感がまるで異なっているのだろう。
 住んでいた号棟に辿り着く。その横の号棟の空間には「通り抜け禁止」と書いてある看板が立っていた。僕は子どもの頃、ここを通り抜けるばかりか、壁にボールを100万回くらい打ち付けてひとりキャッチボールやひとりテニスをしまくっていた。今ならその音がうるさいと苦情になっていただろう。
 僕が住んでいた最上階の五階まで上がって、踊り場から下界を眺める。やはりスケール感がおかしい。当時は広大に見えていたが、今では箱庭のようにしか思えない。
 当時、Windows丘の盛り上がりの始点部分に沿う形で謎の排水溝が伸びており、幾千もの団地住民の足首を捻挫させまくっていた。それがきれいさっぱりと埋め立てられていた。
 なにもかもが整備されていて、危険要素をことごとく潰している。すべてが無難になり、なにも起こらず、誰も怒られない設計になっている。
 でも当時と違ってひとけがないのは寂しい。時折見かけても険しい顔をした老人が歩いているくらいで、極限に安全なはずなのに死の匂いが漂っている。
 僕は五階の踊り場で心地よい新緑の風を受けながら考えていた。
 自分はまさか、昔のほうが良かったと感じているのだろうか。ここに住んでいた記憶はあれだけ息苦しいのに。
 今でも胸が詰まってくるここを早く立ち去りたかった。

 僕は当時通っていた、少し離れた小学校まで走ってみることにした。
 止めていたランニングウォッチを再開する。
 通学路の記憶を辿りながら進む。
 団地を出た場所にある駄菓子屋は廃屋になっていた。団地の外周を沿っていくと個人病院が見える。当時のままだ。さらに通学路を進んでいく。果樹園が多いエリアに入る。当時とほとんど変わっていない。住宅街の中を進むと学童があるはずだったが、更地になっていた。学童にはクラスメイトが沢山通っていたけどあまり遊んだ記憶がない。ひとりで遊んでいるほうが楽しかった。友達と遊ぶよりもTVゲームがとにかく好きで、一刻も早く帰宅してその世界に没頭したかった。
 すぐ近くの民家にオッドアイの老猫がいて、撫でさせてくれた。そろそろ牛舎があるはずだが、不快な牛糞の匂いは漂ってこない。それもそのはずで牛舎は取り壊されていた。
 当時はなかった大きな国道を渡ると、小学校が見えた。校門の前まで辿り着く。
 こんなに近かったっけ?
 僕は呆気にとられていた。ランニングウォッチの距離表示を見ると、団地から1.3kmほどしか離れていない。日課のランニングの1/10の距離だった。
 あれほど果てしなく思えた学校までの道のりがこんなにあっけないとは思わなかった。

 小学校の周りを歩いてみることにした。校庭がふたつある大きな学校なので、入口は複数ある。西にある正門は閉ざされていて、関係者以外は立ち入らないようにと注意書きがされている。監視カメラもあるかもしれない。僕が通っていた頃はもちろん開け放たれていた。門の向こうには校庭で体育の授業を受けている生徒が見える。
 学校の周りを歩いてみる。マラソン大会のコースを辿ってみる。確か校庭内のトラックを一周してからこの正門を出る。記憶をよみがえらせながら辿る。
 ひたすら南下する。雑木林を横断する砂利道を通ってから北上する。苦しみながら走っていた当時を思い出す。僕は脚は速いほうだったが、小児ぜんそくがひどくてすぐに息が乱れてしまう。ひどい発作が出ると教師の車に乗って病院へ行ったり自宅まで送ってもらっていた。
 学校が再び見えた。このコースで間違いない。学校の外周を歩いていると東門に到着した。


 門は開け放たれていたが、入ることは躊躇われた。左手に広がる校庭を眺める。
 広大だと思っていた校庭はこじんまりとしている。すっかり葉桜になっている当時樹齢百二十年を超えていた桜の巨木の存在感だけは変わっていない。より大きくなっている気さえする。
 ここで起きた様々な記憶がよみがえってくる。
 小学生高学年の僕は、背の高いショートカットの女の子の背中を見ながら歩いている。僕は子どもの頃、小柄だった。高校生になってから交際することになるその女の子とは趣味が合った。背が高い彼女をいつも見上げて、F1やSF映画の話をしていた。周囲から弟みたいだと言われるのが本当に嫌だった。でも僕の背は全然伸びない。高校を卒業する頃にようやく170cmになったけど、彼女とは別れていたし、まだ身長は追いついていなかった。別れた原因は思い出せない。何もかもが追いつけないのに近くにいるのが嫌になってしまったのかもしれない。
 精神が沈む団地と学校へきてしまった理由ははっきりしない。
 でもとにかくこの鬱屈を晴らしたくて仕方がなかった。
 僕は一旦、ランニングウォッチのログを切って、アクティビティを終了した。
 一度大きく息を吐ききると、再び起動させて、通学路をハイペースで走った。
 住宅街や果樹園をあっという間に抜けると、団地が視界に飛び込んでくる。光景が曖昧になり、過去にタイムスリップしているような錯覚に陥る。
 住んでいた号棟の下まで辿り着いて、ランニングウォッチを止める。
 大して息も乱れていないのに、5分ほどしかかかっていなかった。当時は20分以上かかっていた。昔のか弱い自分を上書きできた気がして爽快だった。僕は淀みの息苦しさから脱出していた。

 今ならその理由が理解できる。
 僕は人生の中で現状が一番充実しているからだ。喘息を克服し、十五年以上走り続け、筋力も体力も人生で一番ある。どこへでも走っていける自信がある。
 逆に肉体面で貧弱だった幼少期を必要以上に重苦しく感じてしまっている。
 僕は社会は明らかに良くなってると思っている。僕のようなマイノリティでも選択肢が増えて、確実に生きやすくなっている。
 昔の社会は端的に言えばクソで、なにかと問題はあるが、美しい部分はある。その残酷な美しさに強く惹かれてしまう。
 「昔はよかった、昔はよかった」と過去を懐かしむ老人は大嫌いだが、今なら彼らの気持ちがわかる気がする。
 彼らは単純に、昔のほうが若くて体調が良かったからその時代が輝いて見えているだけなのだ。身体の節々が悲鳴を上げ、痛い痛いと苦しみながらバンテリンを塗り続け、湿布を貼り続ける現状と社会を切り分けるのは難しい。
 僕はこれから老いていく。過去が輝きを増していく。
 でも「昔はよかった」と雑に懐古するのではなく、世界をきちんと捉えて、誠実に「昔は<体調が>よかった」と懐かしみたい。
 「昔は体調が良かった、なんて当たり前でしょ?」と笑われても、「昔は体調が良かったし、世界は美しい」と返したい。

江西 祥都江西 祥都

江西 祥都

ゲームやCMの脚本家、小説家、ライターです。 引き籠もって執筆中にあまりのストレスで山に逃走。山でも走り続け、後にこれがトレイルランニングだと知る。 現実逃避をし続け、今ではフルマラソンサブ3、100マイルトレイルレース上位5%のリザルトに……。沢登りやクライミングもします。 ライティングの依頼がありましたらお気軽にお問い合わせください。

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