インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
故障の対処法
久々に脚の故障をして鬱屈としている。おかげで勝負レースであるハセツネはDNSになってしまった。
なにより辛いのは、習慣が崩れてしまうことだ。日課のジョグができなくなり、生活リズムが滅茶苦茶になってしまう。健康や仕事にも支障が出てきてしまい、前向きな思考ができなくなってくる。
かれこれ一ヶ月もまともに走れていない。ここまで長期の故障は珍しい。
走り始めた頃は頻繁に故障していた。ここまでやったら壊れるという基準が分からなかったからだ。
自信過剰で、やりすぎてしまう。長距離を一気に走っては故障を繰り返していた。本人的にはまだ余裕があると思い込んでいるが、肉体は悲鳴をあげている。僕の中にいるエセ関西人のおっさん(イメージ的には小さい板尾創路)が「もうあかん! 壊れるで!」と叫んでいる。その声が聞こえないからやりすぎて故障する。
故障するたびに治し方や予防策を学ぶ。板尾の「もうあかんで!」の叫び声が鮮明に聞こえるようになり、「ほな、スピード落としますわ」とエセ関西弁を駆使して出力を調整できるようになる。これぞ精神と肉体との会話だ。これを繰り返して精度が上がると、板尾の存在すら忘れる。精神が肉体の限界を熟知し、的確に出力できるようになっていく。
精神と肉体の調和がとれている。これが崩れると怪我をしてしまう。
今回の故障は、「一月に1000km走ってみる」という無謀な身体実験の最中に起きた。普段は一月に300km走ればいいところなのに、その3倍以上を走ろうとした。9日間で300kmを走ったところで僕の脚は壊れた。僕の中の板尾は「もうあかん!」とは叫んでくれなかった。いや、散々叫びまくっていたのに僕はそれが聞こえなかったのかもしれない。板尾は呆れ果てて僕の元を去っていったのだ。
故障によって鬱屈としていた僕は、どうにかこの苦境から脱出する術がないか、少しでも気持ちが上向く方法がないか模索していた。
故障を繰り返していた初心に帰ってみる。
どうして鬱屈とするかと言えば、怪我をして日課のジョグができなくなったとか、レースに出場できなくなったとか、できなくなったことを嘆いているからだ。
手をこまねき、故障した身体と向き合わないのは悪手だ。そもそも向き合っていないから故障したので対峙するしかない。道理としてツケは払うしかない。
ただじっと治るまで待つのは得策ではない。足掻き、なんでもいいから行動するのは精神衛生上かなりいい。
ホラー映画「Cube/ヴィンチェンゾ・ナタリ監督」で、主人公達は立方体の部屋に閉じ込められる。散々あがきまくり幾多の犠牲を払う。結局最後に、その部屋にいるだけで脱出できたと知る。でも僕は主人公達のあがきが無駄だとは思えなかった。そうでもしなければ発狂したか殺し合って全滅していただろう。
具体的に足掻いた例を挙げる。
トレーニング方法を見直す。→結局、体系的なトレーニング理論が正しいと身をもって納得する。
少しでも走って回復できないか模索する。→わざと重く安定するシューズを履いて高強度にならないようにする。かかとが痛いので、前足部だけを使う急な登坂をダッシュしまくる。
怪我をした部位は他のどの健と繋がっているか学ぶ。→効果的なマッサージ方法を身につける。
怪我によって方法はいくらでも見つかるだろう。
前述したように怪我によってあれもこれもできなくなったと考えると病んでしまう。今できそうなことを考えて淡々とこなしていく。リハビリの過程を楽しむ。5km走れたら素直に喜ぶ。怪我をする前は毎日15km走れていたと振り返らない。完全に別ジャンルだと認識を変える。この怪我のリハビリ部門で5km走破できるようになったと考えると滅茶苦茶前向きになれる。
まだ完治していないが、毎日痛みは軽くなり、走破できる距離は伸びていく。身体の感覚も鋭敏になっていく。やりすぎると板尾が「頑張りすぎやで。ペース落とせや!」と叫んでくれる。彼の声がはっきりと聞こえる。
この前進してる感覚があれば生きていける。
感覚を研ぎ澄まし、1mmの前進でも実感できるようにする。こっちのほうが重要かもしれない。

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