ランニングエッセイVol.9「楽しすぎるレースと純粋なランニング(後編)」

インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。

楽しすぎるレースと純粋なランニング(後編)

 レース当日。
 総距離160km累積標高10000mにも及ぶ過酷なトレランレースなのに300人もスタートゲート前に並んでいる。しかし彼らの半分以上は完走すらできない。
 僕はレースを極限アトラクション体感ゲームと思って楽しんでいる。
 実際、100マイルレースはほんの些細なミスがリタイアに繋がる。ファミコン版のスペランカーの主人公でもここまで死にやすくはない。
 転倒したくないし、筋肉を温存したいので歩幅を極限まで狭くして慎重に走る。倒木があっても筋力を使うのがもったいないのでジャンプしない。その倒木は滑るので上に乗らない。よっこらせと静かに脚を上げて通過する。こんな地味なアクションゲームがあったら絶対に誰もやらないだろう。ここまで慎重に進んでいても補給をミスると脱水、嘔吐、下痢などに見舞われて終わる。もし順調にレースを運べても、脚攣り、極限の睡魔、幻覚など、あらゆるヤバい現象が襲いかかってくる。
 しかしレース中毒の僕は過去のレースで体験済みだ。よって対策はできている。
 マイペースを崩さず周囲のペースに流されない。大腿四頭筋を労り、お尻とハムストリングスの筋肉を使う。1時間に200kcalほど補給を摂る。エイドでは気温が高くてもなるべくお湯を飲んで胃を労る。豆乳、トマト、バナナを摂って胃のpHのバランスを保つ。それでも胃腸の調子が悪くなったら漢方薬の我神散と成城石井の10倍ジンジャーエールを飲む。他にも数え切れないほど対策がある。それらを守っていればヤバい現象に襲われる可能性は激減する。無理ゲーだと思われている難易度が高いレースでもなんとかなってしまう。なにより半年間トレーニングに励んできた自己肯定感がある。これが一番重要だ。

 過去の経験を踏まえ、とにかくミスをしないように怯えて走っているわけではない。それでは楽しいわけがない。
 一般的に瞬時に勝敗が分かれるようなスポーツでは「練習した以上のことは実戦ではできない。当然ながら身につけたスキルしか使えない」という一般論がある(格闘ゲームなどのeスポーツも当てはまる)。
 100マイルレースは、これが当てはまらない。おそらく競技時間が長すぎるからだろう。 むしろ、これらは逆転する。練習でできないことがレースでできるようになるのだ。
 これは単純に、あまりの長距離、長時間の競技なので、日常で練習することが困難だからという一因がある。

 レースはすでに120km地点まで到達していて30時間が経過している。夜間にトレイルをヘッドライトで照らしながら、極限状態の身体で進む。こんな状況はレースでしか体験できない。だから想定外のトラブルも発生する。そんな危機的状況に陥ってもそれに全力で相対するのは楽しい。
 つまり極限を練習している。なんて贅沢な時間なのだろうといつも思っている。

 細心の注意を払い、ミスをしていなくてもレース中は本当に辛い。疲労は蓄積していく。固形物が受け付けなくなってくる。脚が重い。圧倒的に眠い。何度も辞めたくなる。
 でも「同じように走ってるやつらも辛い。みんな身体中が痛い。怪我をしながら走ってるやつもいる。僕なんて恵まれている」と鼓舞しながら走り続ける。スタート前の完走を疑わなかったフレッシュな自分を思い出す。
 道中、エイドのスタッフや応援でやってきた知り合いに励まされる。こんなに身体に悪いことをしているのに誰も叱らない。むしろ極限まで身体を酷使していることを賞賛される。
「本気出してないだろ? もっとペース上げろ!」と煽ってくるやつまでいる。半笑いでもう限界だと言い返す。こんなことは日常では絶対にない。

 レースは楽しすぎる。
 レースの終盤、極度の疲労による薄い意識の中でもそう感じる。身体が死の予感を察知して無理に意識をハイにしているだけかもしれないが。
 やはりこれは劇物だ。
 「純粋なランニング」をこころざしていた僕は消え失せようとしていた。
 そんな僕はトレイルの脇で、憧れ続けた達磨大師を見つける。四肢のない彼は当然のように座禅をしていた。
 目を凝らす。それはもちろん幻覚だ。髭面の疲労困憊のランナーが座り込んでいただけだった。
 僕は「大丈夫ですか?」と声を掛ける。「眠くて限界なんです」と答える彼の表情はなぜか穏やかだ。極限まで消耗し、生気が消え失せているランナーは悟っている禅僧に近い存在なのかもしれない。
 彼を残して走り出す。
 僕は達磨大師の境地に思いを馳せる。
 四肢がなくなるほど座禅を続けて、座禅マシーンと化した彼のように、ただひたすら純粋に走るだけのランニングマシーンの境地に達するにはどうすればいいのだろうか。
 得体の知れない予感を察知していた。
 もしかしたら、最強のハレ状態であり、このレースをなんとしても完走したいという欲望に塗れている今だからこそ、「純粋なランニング」へと近づいているのかもしれない。

 まだ未熟な修行僧は、ひたすらきつい修行をする修行バカになってしまうらしい。例えばビジュアル映えする滝行をひたすらやってしまう。激しい水が頭に落ち続ける。その衝撃でハイになり、さらにバカはエスカレートする。時には流木も落ちてきて頭をかち割り、さらにバカになる。もっと辛い修行に身を投じていく。
 そんなの次々ときついレースに出てしまう僕もまったく同じだ。
 僕はどうして、ダイエットであったり、レースに出て自己肯定感を上げるような、目的のあるランニングに罪悪感があったのかようやく理解できた気がした。
 ランニングは僕にとって、もはや信仰だったからだ。
 左右の脚をひたすら動かし、前に進むというあまりにも基本動作なため、まったくそうは思えなかった。でも、あまりに単純だからこそその動作自体に神が宿っているといえる。座禅と同じように。

 信仰する際に、「私こそが本当に教祖の教えを理解している」とか「私のほうが多大なお布施をしている」と信者同士で競うと狂う。対象がもはや信仰対象へ向かっていないからだ。
 昨今では、「推し」への好きの程度を競っているひとたちをよく見かけるが、彼らも例外なく狂っていると感じることが多い。こういった現象は普遍的なのだろう。
 ランニングもまったく同じだ。レースへ出て「私こそ速い」をして競っていると、同じように狂っていく。もしくは、突然燃え尽きて走ることをやめてしまう。
 僕はこれを察知していたのかもしれない。正確には罪悪感ではなく、単純に危機感を抱いていたのだ。

 僕はレースを完走し、圧倒的自己肯定感に満たされていた。
 しかし、一週間ほど経つと正気を取り戻し、とりあえず封印していたあの感情と対峙することにした。
 レースに出るのを辞めるべきだろうか。
 いや、辞めるべきではない。即答だ。
 こういった考えに至るまで導いてくれたのもまたレースだ。こうやって欲に塗れて寄り道しまくり、修行という名のレースに身を投じなければ、こんなことすら理解できなかった。
 僕はこの先も自己肯定感を満たすためにレースに出続けるだろう。
 でも、こうやって僕らしく、些細な違和感を大事にしたいと思う。しっかり炙り出し、それを書き留めて考え続けることが重要だ。

 きっと僕は死ぬまで走っている。80歳になっても走っているだろう。ランニングするために最適化されたような体躯をすごい切り込みの入った短パンとタンクトップで包み、ゾンビみたいに毎朝20km走っている。近所を走るランナーからは「あのジジイ、若い頃はヤバいレースを完走したりマラソンも速かったらしい」と噂されている。僕はその武勇を誇ったりせず、思い出を静かに胸にしまっている。気難しそうだから誰も話しかけてこなくて孤独だし、僕は相変わらず根暗なので話しかけられない。
 そんな判を押したような生活を送っている僕は完全に呆けてしまう。ある日、心地よく気の向くままに走り、日課の20kmを越えても走り続ける。ただ無心に走り、数百キロ離れた場所で力尽きたところを警察に保護される。
 僕は身元を訊いてくる警察にこう返して死ぬ。
「ついに悟った……これがランニングの境地じゃ……」
 なんて素晴らしい終焉だろう。僕はこんなランニング人生を送りたい。

江西 祥都江西 祥都

江西 祥都

ゲームやCMの脚本家、小説家、ライターです。 引き籠もって執筆中にあまりのストレスで山に逃走。山でも走り続け、後にこれがトレイルランニングだと知る。 現実逃避をし続け、今ではフルマラソンサブ3、100マイルトレイルレース上位5%のリザルトに……。沢登りやクライミングもします。 ライティングの依頼がありましたらお気軽にお問い合わせください。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


TOP