インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
楽しすぎるレースと純粋なランニング(前編)
僕はどうにもランニングに純潔を求める悪癖がある。
具体的に述べれば、ダイエットのためだとか、適度な運動により仕事で発想が湧きやすくするためだとか、レースに出て好成績を収めて自己肯定感を上げるためだとか、そういった欲望を叶えるためにランニングすることに抵抗がある。不純だと思ってしまうのだ。
走るために走りたい。純粋にただひたすら走りたい。
そうすると罪悪感なく走れると思うのだが、それを実行するのは本当に難しい。ほぼ不可能だと感じてもいる。
この「純粋なランニング」を目指すに当たって、なぜか想起してしまう人物がいる。
禅宗の開祖と言われる達磨(ダルマ)だ。あの選挙で候補者が勝ったときに目を描き入れる丸くて赤いやつの元ネタの人物だ。禅宗の僧は、一休さんでお馴染みの一休宗純もそうだが、パンクな輩が多く、彼も例外ではない。
禅宗の高僧は瞑想している状態が一番仏に近いから、ひたすらそうしている。仏でいる時間を長くすることはすなわち仏なのだ。
達磨大師は座禅のしすぎで四肢が腐り落ちてしまった。究極に座禅がしやすくなったその姿は、生きたまま極限まで仏に近づいた証と言える。
そんな彼の生き様に「純粋なランニング」へのヒントが満載されていると感じているのだが、具体的な方法はなかなか掴めずにいた。
まあとにかく、何も考えずにひた走るが、すぐに退屈になってオーディブルを聴いてしまい、ながらランニングになってしまうのだった。
そんな生活の最中、日課のジョギングを終えて、シャワーを浴び、部屋でくつろぎながらパソコンをいじっていたら、いつの間にか100マイルトレイルレースに申し込んでいた(本当は受付開始前から入念に準備してクリック合戦に勝ちました。すみません)。
欲望にまったく勝てなかった。そのくらいレースは魅力的で楽しく、高尚そうなこころざしなんてあっという間に霧散してしまう。
根が鬱屈とした文学青年染みている僕にとってレースはハレである。
僕は日々、ひとりで黙々とジョギングしている。知人と練習することは滅多にない。こんなケを繰り返していると、どうしても社会性を失っていく。夏場は毎日上裸でジョギングしているが、レースで上裸は基本的に許されない。だからウェアを着てゼッケンを付けて管理される。すると一端の人間に戻ることができる。レース前には受付もしなければならないので日本語で会話する必要がある。ランナー仲間にも会うので最低限の社交性も復活する。
レースがなければ僕はどんどんエスカレートして下半身も丸出しになり、日本語もしゃべれなくなり「ウパー!」としか叫べない東京原人に戻ってしまうだろう。
レースはこうして僕を人間に戻し、社会性を付与してくれる。
人気のレースは開催半年前くらいのエントリー開始直後に埋まってしまうことが多い。だからすぐにエントリーしなければならない。
意を決して申し込み、クレカ決済する。
これは未来を買う行為に他ならない。半年間で身体を作っていく約束のようなものだ。
100マイルレースならば、「もう少し無酸素を鍛えて、閾値を鍛えて、トレイルのロング走をして下れる脚を作っていこう。レースの一ヶ月前まで鍛えてあとはピーキングとテーパリングだ」と練った計画を実行していく。これがまた楽しい。仕事はまったく計画性がなく、日々締め切りと戦っているが、遊びになるとどうしてこんなに頭脳明晰でアグレッシブな性格になるのか不思議でならない……
僕は若い頃、好きなアーティストのライブに行くのに狂っていた。
チケットを購入する。ライブは楽しみだけど、それまでにやることは音源を聞き込むとかそのくらいだ。回数をこなしているとやることが減っていく。
旅行も近いかもしれない。航空券を買って宿をおさえて、現地のガイドブックや歴史書などで下調べする。これもあっという間に終わってしまう。
ランニングのレースは様々で煩雑なタスクをこなさなければならない。レースの難易度を上げればその分トレーニングも充実して飽きることもない。
半年間も楽しめて肉体を絞って節制もできる。なんてお得なのだろう。
100マイルトレイルレースのような過酷なレースだと、開催日近くになるとどうしてもナーバスになってしまう。
パニックバイという現象がある。新しいギアやウェアを買って不安の穴埋めをしたくなるのだ。補給食なんて冬眠前のリスのように買い込んでしまう。
怪しい磁気ブレスレットを付けたり変な丸いシールを身体の至る箇所に貼っているランナーはこの状態につけ込まれた哀れな不安商法の被害者といえる。
この時期に家族と不仲になるランナーは多い。こんなナーバスになっているのに、家族に「おまえばかり遊んで!」「わざわざ苦しいことやってアホか!」と責め立てられる。完全にランナー側が悪いのだが、どうか大目に見てやってほしい。
僕が勧めるのは、この時期にあえて優しくすることだ。決して責めず、「楽しんでベストを尽くしてこい!」「無事に帰ってこい!」と叱咤激励したほうがいい。
以前、パートナーにエナジージェルの詰め合わせをもらったことがある。マラソンの補給食セット的なあれだ。この補給食をレース中に摂るたびに、パートナーの存在を思い出す。自分ひとりで生きているのではないと実感する。無事に家へ帰ろうと思う。実際、このジェルはお守り代わりになった。補給食セットは自省を促してくれる。
もし苦言を吐きまくっていたとすると、ランナーは罪悪感を抱えながら走ることになる。もしレースに失敗した場合、逆恨みされるまであるかもしれない。こういうことが蓄積していくと破局の危機まである。気持ちよく送り出されたとしたら感謝しかない。なにより失敗しても気持ちよく全部自分のせいにできるのが重要なのだと思う。
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