インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
速く走ることに囚われる(後編)
プラトーa.k.a絶望の高原で停滞すると走る気力は消え失せていく。その対策は様々だ。そのひとつの方法は、トレイルランニングで培った体力を生かし、山の新たなアクティビティに取り組むことだ。これでまたはっきりと上達できる。
トレイルランニングの仲間は、もっと距離を伸ばしてTJARを目指したり、オリエンテーリングやロゲイニングにはまってOMMに出場していた。
僕も例外ではなく、登山の総合格闘技といわれる沢登りに惹かれていく。このアクティビティは危険を伴う。登山中に迷ったら下ってはいけないというセオリーがある。それは谷に入ってしまうからだ。そこには川が流れている。ということは大きな滝に行き着いて墜落し、命を落とす危険性が高い。
沢登りはこの忌避する場所を突破していく。だから生存するための必須スキルである読図の精度を高めたり、外岩に通いロープワークを身につけ、クライミング能力を上げなければならない。
沢登りと僕はこの上なく相性が良かった。谷はどこか薄暗くて、じめじめしている。洞窟みたいに日が差さないゴルジュを突破することもある。
今までの尾根沿いを登る日の当たる登山はどうにもしっくりきていなかった。第一、人が多すぎる。僕のような陰キャには、じめじめした沢沿いを登るのが正規ルートだったのだ。谷沿いを進んでいるのに最後には陽キャと同じように頂上へたどり着けるのも良い。陰の道でも頂点では結局陽キャと交わる無情。でも通ってきた道は違う。過程こそが重要なのだろう。だから沢屋は、頂上に興味がない人が多い。谷の面白い部分をある程度遡行すると尾根に出てそそくさと帰ってしまう。
そんな沢に魅了されていた日々は終わりを告げる。
目標としていた難しい沢の単独遡行に成功すると、その熱は次第に失われていった。これまで何度も危険なフォールをしていた。膝の骨挫傷など怪我も絶えなかった。これ以上やると、不器用で注意力が散漫な自分では死ぬと直感が働いたからかもしれない。
この頃、コロナ禍に突入した。レースがまったく行われない世界を受け入れるしかなかった。
僕は単独でも死ぬ危険が低い、易しい沢へよく足を運んだ。誰もいない沢を遡行し、釣りをしたり山菜を採り、のんびりと焚き火をしていた。
永遠に続くかと思っていたコロナ禍が収束するとレースが戻ってくる。
僕は再び出場し始める。すっかり忘れてしまったレースの勘を取り戻していくのは楽しかった。
走力も戻り、マラソンのタイムを縮めようとすると、あいつが姿を現した。
絶望の高原ことプラトーだ。
またこいつと戦わなければならないのかと、うんざりする。でもやらなければならない。過去の戦績を振り返り、お前はよくやったと納得させるのは格好悪く思えるからだ。
練習するのは好きだった。なにかに日々打ち込むのは尊い行為だと思う。なにより精神が安定する。
働かないと人間は狂っていくと主張するひとがいる。僕はこの考えは賛同できない。趣味でもなんでもいい。日々練習していれば人間は狂わないと思っている。いや、練習というのは高尚な言い方かもしれない。愚直な作業や反復でいい。ランニングはこの愚直な反復に最適だ。
ただ、僕の場合は上達が伴わないと精神が病んでくる。テレビゲームでもなんでもそうだった。この頸木から解き放たれる方法はないのだろうか……
僕はまだ観光客が戻りきっていない京都の寺社巡りをしていた。
京都市の中心地は山に囲まれている。いわゆる盆地だ。
早朝、ホテルがある京都駅近辺からまず山に向かってバスに乗る。山の麓に着くと、そこから15km~20kmほど徒歩やランニングでホテルへと戻りながら寺社仏閣を巡っていく。こうすると効率よくまわることができるし、公共交通機関を使わないので混雑も回避することができる。
この日も早朝にバスで東へと進み、山の麓に位置する法界寺まで移動してから寺社を巡ることにした。次に醍醐寺を参拝すると、京都一周トレイルに入り、千本鳥居で有名な伏見稲荷に到着する。本殿を参拝して奥へ進むと、奥宮のある稲荷山へと続く参道が見えた。
僕は吸い込まれるように稲荷山を登っていく。鮮やかな朱の千本鳥居を潜っていく。標高300mほどを登り、山頂の一ノ峰近くの開けた場所から、これから向かう予定の京都駅の方角を眺める。
そこには、古都特有の地に足の付いた町並みが広がっていた。良くも悪くも落ち着き払っている。
遙か遠くに東寺の五重塔が見えた。右手手前には広大な境内を有する東福寺が見える。それらの1200年以上も前の建築物は、周囲の近代建築にまったくかき消されずに圧倒的な存在感を醸し出している。
僕はしばらくぼんやりと景色を眺めていたが、なにかを思い出した。それはプラトーだった。僕はリアルに絶望の高原に立っていると錯覚する。
なにか掴めそうな気がするが、答えを手繰り寄せようとするのはやめて、再び京都の町並みを眺めていた。
悟ったというのは大げさだけど、腑に落ちた。
僕は突き進むことが正道だと信じ込み、振り返ることは恥だとすら思っていた。
そうやって前ばかり見ていたから、のっぺりとした高原に打ちのめされてしまっていた。こうして振り返れば今まで歩んできた景色が俯瞰できたのに。
そこには、100マイルレースを完走した嬉しそうな姿も見えるが、それだけではない。クロストレーニングで始めたロードバイクで気持ちよさそうに峠を走ってる姿も見えるし、沢でのんびりと焚き火をしている姿も見える。自分に合った登山のスタイルも見つかった。それは遠回りしまくった結果の経験だけど無駄とは思えなかった。ひとつひとつの行為は間違いなく繋がっている。
そもそもレースはどうでもいいのかもしれない。こうして寺社を走りながら巡ったり、軽々と稲荷山を登れる体力を身につけられただけで充足している。
プラトーはもう怖くなくなっていた。
僕は稲荷山を下り、再び千本鳥居を潜っていく。
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