ランニングエッセイVol.6「速く走ることに囚われる(前編)」

インナーファクト ランニングエッセイ

ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。

早く走ることに囚われる(前編)

 休日の井之頭公園では、カップルがのんびりと歩いていたり、家族連れがシートを広げてピクニックをしている。
 その西園にある400Mトラックを猛烈な速さで駆けている場違いなおっさんがいた。
 僕だった。
 1km4’00ペースでひたすらぐるぐるまわっていた。25周、合計10kmほど走り終える。ベンチに座り、背中を丸めながら荒い息を吐く。
 僕は落胆していた。このタイムでこの心拍数だと次のマラソンレースで2時間50分を切るのは難しい。52分ならなんとかなるかもしれない。目標の下方修正をするか迷いながら、ふと視線を上げる。
 ランナーをちらほら見かけるが、僕のように異常なハイペースで走ってるひとはいなかった。トラックの内側は芝生になっていて、子どもがボール遊びしていたり、カップルが膝枕をしていた。こんな牧歌的な光景が広がっていたのだと驚く。先ほどまでここは悪鬼羅刹が住む、きつい修行の場だと思い込んでいたのだ。
 僕のすぐ前をランナーが通り過ぎていく。1km6分くらいのゆったりとしたペースで淡々と進んでいる。フォームはなんだかぎこちないし、脚の筋肉も締まっていない。僕はその姿を見ながら、楽しそうだなと漠然と思うが、なにか違和感があった。
 帰路のジョギング中に、どうしてそう感じたのか探っていく。
 無限に「伸び代」があるように見えたから楽しそうだと思ったのだ。
 そのとき僕は、ひどく不安な気持ちになっていた。自分の肉体は屈強になり、速くなるが、精神が置いてけぼりになっているようなそんな感覚だった。
 どこでそれを置いて行ってしまったのだろうか。

 走り始めたのは十五年ほど前だった。
 当時は5km走りきることが信じられなかった。人間の所業とは思えない。
 そんな僕でも歩きを混ぜながら徐々に距離を伸ばしていき、10kmを走れるようになっていった。最初の目標らしい目標は、「10kmを1時間で走りきる」だった。それを達成したときの達成感は忘れられない。
 どこまででも走って行ける気がした。僕の狭くて周囲しか写していない脳内地図アプリが拡大した。世界の認識が変わったのだ。

 僕は昔から寺社仏閣を巡るのが好きだった。先人の知恵が詰まった古い建築物を眺めているとその工夫に感嘆するしかない。それを踏まえて現在があると再認識すると自然と気持ちは落ち着く。
 ランニングでそれなりに走れるようになってからは、旅行するとホテルを起点に走って史跡巡りをするようになった。車で旅行すると、位置関係の記憶がどうしても飛んでしまう。自分の足で移動すれば、路傍の機微を感じ取れる。狭い路地に入ることができる。そういった場所には生活の生々しい痕跡がある。

 走れる距離が増えてくると、次第にレースに参加するようになっていった。当時読んでいたランニングの名著「Born to Run」に影響を受け、マラソンではなくトレイルランニングに傾倒した。最初は40kmのレースを完走するのがやっとだったが、次第に70km、100km、ついには100マイル(160km)のレースを完走するようになっていく。
 目標を次々に達成していくのは気持ちがいい。上達しているという確かな実感を得られる。高い場所へ、より高い場所へと登っていくと気持ちが良いのは動物の習性なのだろう。このときの僕はまだ「プラトー」を知らず、無邪気に突き進んでいた。

 100マイルレースを完走すると、距離を伸ばしていく欲求は沈静化していく。
 次に求めるのは速さだった。マラソンのレースに出場するようになり、タイムを縮めていく楽しさに目覚めていく。
 マラソンのトレーニングは体系化されていた。それを元に陸上トラックで走り込んでいくと、マラソンを3時間以内で走れるようになっていた。

 レースに出ていると、同じようなレベルのランナー仲間が自然と増えていった。気の合う仲間と時々山を走るのは楽しかった。
 そんなランナー仲間のほとんどは走力の天井を感じていた。僕も同じだった。ここまでは順調に成長していたが、明らかに鈍化している。マラソンの2時間50分切りの壁は尋常ではなく、ずっと停滞していた。タイムは伸ばすのではなく、削るものだと認識が変化するほどに。
 この現象は名前が付いているらしい。
 「プラトー」といい、高原を意味する。
 今までは急斜面だったが、それを登り切ると、一気に視界が開ける。そこにはだだっぴろい高原が広がっている。きわめて緩やかに登っているが先は見えない。
 ビジュアル系バンドの歌詞でよく「絶望の丘」という単語が出てくる。それを連想した。僕は先へ進めず、絶望の丘よりも絶望度合いがひどい絶望の高原で文字通り絶望し、膝を抱えながら震えて停滞している。
 絶望の高原(プラトー)ヤバい。

ランニングエッセイVol.7「速く走ることに囚われる(後編)」へ

江西 祥都江西 祥都

江西 祥都

ゲームやCMの脚本家、小説家、ライターです。 引き籠もって執筆中にあまりのストレスで山に逃走。山でも走り続け、後にこれがトレイルランニングだと知る。 現実逃避をし続け、今ではフルマラソンサブ3、100マイルトレイルレース上位5%のリザルトに……。沢登りやクライミングもします。 ライティングの依頼がありましたらお気軽にお問い合わせください。

関連記事

コメント

    • 佐藤隆英
    • 2025.04.16 4:10am

    これを読んで、今、まさに自分の事だと思いました。
    わたしは57歳になる男性で走歴は10年です。今サブ3.5狙いですがこのプラトー状態です、最初は、近所の裏山を、車では行けないとこに自分の足で行ける事がただ楽しかったのに、いつからかタイムに囚われ、レースに出る事が目的、近所の公園でのんびりしてる人を尻目に息を切らせて鬼の形相で走ってる。なんか違う
    以前のように楽しくない、そう感じる今日このごろに疑問を持ちながら、それが何故なのか、自分だけなのか、わかりませんでした、これ読んでそれがわかりました。
    少しほっとしました、何か霧が晴れた気分です。ありがとうございました、これからもこのエッセイを読ませて頂きたいと思います、そして原点に戻り楽しく走りたいです
    よろしくお願いいたします。

CAPTCHA


TOP