インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
参加賞Tシャツの思い出と死んだ猫の話
マラソン大会に出るともれなくもらえる参加賞Tシャツ。
大会が乱立する昨今では、「いらない」とか「別のものにしてくれ」という意見をよく目にするようになった。
年間に5レースほど出場している僕もこの意見に賛同していた。すでにクローゼットはTシャツだらけだからだ。
でも、レースに出始めた頃は違う意見を持っていた。
日本山岳耐久レース(ハセツネ)に初出場して完走して貰ったフィニッシャーTシャツは本当に嬉しかった。胸に大きく総距離である「71.4km」と書いてある。
「どやっ! 71.4kmもの山道を走破したんだぞ!」と言わんばかりだ。どこか誇らしげで、今思い出すととんでもなく格好悪い!
初100マイル完走レースとなったKOUMI100のTシャツも嬉しかった。
成し遂げた証を着て、日々トレーニングに励むのだ。モチベーションも自然と上がる。
こんなシャツを着て走っていると、思わぬ邂逅を果たすときもある。
富士五湖ウルトラマラソンのTシャツを着て川沿いの細い道を走っていると、ランナーが向かってくる。既視感がする。それもそのはず。全く同じシャツを着ていたからだ。
「同じシャツ!」と、お互いに指を指しながら笑ってすれ違った。
KOUMI100のシャツを着て、近所の激坂を何度も往復していると、僕を追い越したランナーが戻ってきた。
「あの……KOUMI完走したんですか?」
したと伝える。彼は目標レースにしているらしい。一緒に走りながらしゃべる。
「ここ、ずっと走ってるんですか? やっぱこんなヤバい練習しないと完走できないですよね。私も頑張ります」
彼は勝手に勇気づけられて去って行った。
参加賞Tシャツは、同じこころざしを持っている(持っていた)者同士をくっつけてくれる。
フロストバイトという横田基地内を走れる珍しい大会がある。この参加賞はTシャツではなくて、トレーナーだ。
適度に厚手で、寝間着にちょうどいい。寒い日にはそのまま走り出してもいい。デザインはいかにもアメリカンな感じで格好いい。このトレーナーを目当てにエントリーするひとも多いらしい。
このトレーナーは重宝する。二年前に死んでしまった猫のヨルもお気に入りだった。
寝ようとするとヨルは、掛け布団をめくれと僕の頭をつつく。めくると入ってきて、僕の脇に顔を埋めて横たわる。数時間経つと足下に移動するが、他のパジャマよりもフロストバイトのトレーナーを着ているほうが滞在時間が長かった。すべすべの肌触りが心地よかったのかもしれない。
起床して、トレーナーを脱いでベッドの上に放り投げる。着替えて仕事へ行く。
帰ってくると、ヨルはトレーナーの上でよく寝ていた。
猫によって温められたトレーナーを着る。換毛期だと毛だらけだ。ベランダで払ったりコロコロクリーナーで毛を取っていた。
当時は怠いと思っていたが、今ではこの怠さが恋しい。猫の悪行にうんざりするのは幸せなことだったのだ。願わくばもっとゲロ掃除がしたかった。
2023年の初夏。十八歳になったばかりのヨルは急激に痩せ細っていた。かかりつけの獣医の元へ連れて行く。体重はいつもは3kgなのに2kgまで落ちていた。血液検査の結果も悪い。
「いつ死んでもおかしくないですよ」
持って一週間だと言われる。透析をすれば少し伸びるかもしれない。他にも延命治療の選択肢はあるらしい。
ヨルはもう18歳だ。よく生きてくれた。僕は飲めなくなったり食べれなくなったら終わりでいいと考えていた。そうやってゆっくり弱って死んでいく。それが自然で美しいし、僕のエゴで無理に生かして苦痛を与えたくない。最低限の点滴だけを受けると、ヨルと一緒に帰った。
この夜、一緒に寝ていたら涙が溢れてきて、意味が分からないほど泣いた。ヨルを保護してからいつかこのときがやってくると思ってはいたが、考えないようにずっと蓋をしていた。最悪の出来事がついにやってきたのだ。僕は小説や映画など創作でしか泣いたことがない。現実の出来事で初めて泣いてしまった。
ヨルはずっと寝ていた。起きてトイレに行っても砂に前脚を一歩踏み入れただけで、おしっこをしてしまうので笑ってしまう。当然フローリングはおしっこだらけになる。
「まあ、ここまで来ただけでも大目に見てよ」といった様相だ。
大好きなちゅーるも舐めなくなり、水も口まで運ばないと飲むことができない。
病院へ行ってから十日後、ついに水も舐めなくなった。
明け方、僕の二の腕に顎を乗せて眠りながら、小さな咳を二回した。そのままヨルは目を覚まさなかった。
遺体を安置するために敷くものを探していると、ヨルが大好きだったトレーナーが目に飛び込んできた。袖はゆるくなり、首回りはだるだるになっていたが、愛着があって捨てられずにいたのだ。
それを床に広げると、ヨルを横たわらせてから包み込んだ。
この日の午後、ヨルはトレーナーと共に灰になった。

コメント