インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
仕事と家庭とランニングの両立という呪い
正午前になんとか起床する。
すぐに無心になって、面倒くさいという思考を振り払い、出かける準備に取りかかる。こうしないと夕方まで寝てしまう。着替えて歯を磨き、顔を洗い、コンタクトレンズを入れて家を出る。
自転車に乗って喫茶店へ向かう。軽食をとってコーヒーを飲んでから、スマホをザックの奥底に封印する。こうしないと延々とSNSを見てしまう。
POMERAを開いて執筆を開始する。これは小型のワープロのようなもので、書くことしかできない。つまりネットに接続できない。だから集中できる。
喫茶店は仕事場のようなものだ。周囲の視線があると寝転んだりしないので強制的に集中できる。
元々仕事場を借りていたが、ひとめがないと、やりたい放題になってしまう。寝転んだり、本を読んだりはまだ良いほうで、ゲームをしだしたり、ひどいとおちんちんをいじり始める。
意思がとにかく薄弱だ。だから、習慣の力でねじ伏せるしかない。
しかし、こんなに行動制限を掛けているのに、原稿は進まない。三時間もアウトプットするとすぐに脳は枯渇状態になる。
もうランニングしかない。走ると脳の霧が晴れて新しい発想が浮かぶ。体調も良くなる。これができないとますます塞ぎ込んでしまい、日常生活を送ることもままならなくなる。
おそらく走るよりも移動することに意味がある。一日10km以上も走ると、一万年ものあいだ全く進歩していない脳が、獲物を追っている充実した一日だと錯覚するのだ。あとはスーパーで食材を買えば、獲物を狩って肉や果物をゲットした勝ち組リア充原始人ができあがる。これでメンタルは完璧だ。
帰宅して家事を済ますと、本を読んだり映画を観たりSNSに貼り付いたりしている。実質一日三時間くらいしか働いていないが気にしない。こんな毎日を繰り返しているから収入は戦慄するほど低い。親しい友人や知人からは霞を食ってる仙人だと本気で思われている。それなのに不思議と奮起の気概もない。頑張ってもいいことなんてなにもなく、心がすり減るだけだと身に染みて熟知しているからだ。百戦錬磨の負け組就職氷河期おじさんは面構えが違う。その生き方も気合いが入っている。
先のことを考えると死にたくなるので現実逃避は欠かせない。再びSNSを開いてクイックドーパミンを補充する。
すると、ランナー界隈の知人Aさんの発言が目に止まった。
目標トレランレースに向けて練習をしたらしい。練習ログの画像もあるので見てみる。山に入り、長時間に渡って高強度の練習をしているようだった。きつい練習だっただろう。素晴らしい。お疲れさまの意味も込めて「いいね!」をクリックしようとするが、一応その後の文章も読んでみる。
「私はきちんと仕事をこなしてから練習し、終わってからきちんと洗濯をしたし、子どもの面倒も見た。家族には迷惑をかけていない」こんなことが書いてある。要するに、仕事と家庭を決してないがしろにしていないとアピールしているのだ。
この発言をしたAさんとは一緒に練習をしたこともあるし飲んだこともある。人格も面倒見も良く、高学歴高収入で家庭を持ちしっかり子育てもしている。それでいて走力も高い。聖人みたいなひとだ。僕と同じ人類とは思えない。
僕みたいに感じているひとはきっと多いのだろう。そして彼はそんなひとを失望させないように配慮しているのだ。強烈な防衛本能。悪く言えばブランディングなのかもしれない。すさまじい正しさへの社会圧が彼をそうさせていると感じてぞっとする。
長距離のトレイルランニングのレースで、時々見かける光景がある。フィニッシュゲートで配偶者や我が子に迎え入れられて、一緒に走ってゴールテープを切るのだ。幼い我が子を肩車しながらフィニッシュなんてするとさらにポイントが高い。テレビの特番などでも有名選手がよくやっている。
つまりあの光景は、きちんと仕事をして家族を構築して養い、日頃から過酷な練習をしているのに迷惑を掛けずに円満な関係を築けている証なのだ。あの光景はただのフィニッシュではない。人生のすべてを手に入れている究極のフィニッシュといえる。だからみんな憧れてしまう。あの姿を見ると、Aさんのようなひとは脳汁がドクドク分泌されて、「俺もああなるぞ!」と夢想してしまうのかもしれない。
なんだかむくむくと僕の中の井之頭五郎的なものが現出してきて、「ランニングは誰にも邪魔されず、自由で、救われてなきゃダメなんだ……独りで静かに……」と、ささやきだした。
僕の中の井之頭走朗(「いのがしらはしろう」に改名しました)はさらに言葉を紡いでいく。
「仕事してなくても家庭をもってなくても、ろくでもない人間でも走ってもいいんだよ」
実際はどうだかわからない。最低限やることやらないと走っちゃいけないのかもしれない。でも僕は決してそうは思わない。僕がそうであるように、すぐに怠けて仕事ができなくて低収入で子どもがいない限界おじさんでも走れるなら走ってもいい。
僕はAさんの頭を抱えて「そんなことは気にしなくていいんだよ!」と勇気づけてあげたい衝動に駆られる。
「病んでるのは世界のほうなんだ! こんなヤバい練習したんだぞ! どや! ってストレートに、それだけ発言しても誰も責めない」
でもこんな社会的に最下層の僕に慰められても屈辱だろうな……と冷静になっていると、数ヶ月前にSNSで見た発言をフラッシュバックしてしまう。
それは、「ランナーは仕事ができて収入が高い」みたいな内容だった。その発言は悪意が無かった。文脈的に発言者の周囲のランナーを褒め称えていただけだ。だからこそ鋭利に突き刺さる。
そして、この「ランナーは仕事ができる」とか「走ることで仕事が上手くいく」などの説はうんざりするほどよく目にする。
この話は、逆相関の一言で片付けられるだろう。収入も時間も余裕があるから走れるのだ。そしてその積み重ね(トレーニング)で走力は高くなる。でもそういうことじゃない。こういったイメージの積み重ねこそが危険なのだ。先のAさんのように、そこからこぼれ落ちることを過度に恐れてしまう。そんな堅苦しい世界は嫌だ。それになにより、新参者が身構えてしまう。ランニングなんて着の身着のままに走り出せばいい。走れメロスのようにパンツ一丁にサンダルで走ってもいい。マラトンの伝令も終盤は同じような服装だったと思う。敷居が恐ろしく低い運動なのだ。だから僕みたいな怠惰の権化みたいなやつでも工夫次第でずっと続けられる。
僕は開眼する。それは天啓のようだった。僕の使命が見つかった。
僕はこのままでいいのだ。怠惰なままで! このまま、まともに働かず、低収入のままランニング界隈に居座るのだ。そうすれば、ランナーの平均年収は下がりつづける。ランナーは仕事ができるというイメージも地の底に落ちる。そうすればランニングという行為はあるべき姿を取り戻すことができる。
こうして働かずにいるための大義名分を得た僕は、今日も働かずにランニングにいそしむのだった。
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