インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
日々のランニングコースの作り方
日々走るランニングコースは自然と決まっていくような気がする。ずっと走っていると自然とフォームが最適化されていくみたいに。
僕は毎日、ほぼ同じコースを走っている。頭を使わなくて良いからだ。オーディブルの朗読が自然と頭に入ってくればいい。それだと400mトラックを周回したり、トレッドミルで走ればいいと思われるかもしれないけど、変化がなさ過ぎて気が滅入ってしまう。適度な刺激や緊張感は必要だ。
ループはとにかくきつい。道中に大きな公園に入ったとしても、その中のトラックや池の周りを一周するだけでも徒労感が発生する。ループは学生の頃の「罰としての校庭○周」や部活動での「トレーニングとしての校庭○周」を連想してしまうので萎えてしまう。
やはりワンウェイで戻ってくるコースがいい。
僕が重視する項目は以下になる。
「車の交通量が少ない」、「横断歩道が少ない」、「人通りが少ない」、「涼しい」、「水道やトイレがある」、このくらいだろうか。
これらを考慮すると自然と川沿いのコースになるのは面白い。
川沿いはなぜか上半身裸で走っても許される傾向がある。僕は真夏は上裸で走るのでその恩恵を思いっきり受けている。しかしこの傾向はよく考えたら謎だ。鎌倉などの海水浴場に接していると海パンだけでふらついていても許されるのと同じなのだろうか。
つまり、「これから川に飛び込むかもしれないですよ!?」という予感を周囲に与えながら、実際はそうせずに15kmも走っていることになるのだ。そうやって約90分間もの間、毎日毎日人々を騙し続けていることになる……
書いていて日々積み重ねてきた悪行に恐ろしくなってきた……
僕は主に神田川や玉川上水沿いを走っている。川沿いは草木が豊富で、春は桜、夏は青い香り、秋は紅葉、冬は冬枯れや蝋梅が楽しめる。季節の移り変わりを走りながら味わえる。だから走り始めてからは、わざわざ桜の下に陣取って花見をしたいと思ったことがない。
川沿いを走っていると、上流に向かっていると登り、下流に向かっているとくだりになる。こんなことは当然だけど、川は傾斜があり、海に向かって流れているのだと地面を踏みしめながら実感できる。当たり前だけどそういうことを日々実感するのが、生活にとって大事なのだと思う。
あとは寺社仏閣の参拝もランニングに組み込んでいる。僕はいつも近所の第六天神社にお参りしている。ここの狛犬が味わい深い表情をしている。こいつに挨拶し、拝殿で「いつもありがとうございます」と感謝の言葉を念じている。
願掛けは滅多にしない。やることを徹底的にやってあとは神頼みしかないという状態のときはいいかもしれない。僕は日々怠けているので、そんな状況はほとんどない。もしあったとしても、日々積み上げられたことに感謝したほうが精神衛生上良い。これはレース前にやっている。

僕はロング走をしたいとき、よく15km先にある映画館へ走って観に行く。もちろん帰りも走る。
少し遠回りになるけど、ストレスを減らしたいので、なるべく川沿いを走って映画館へ向かう。映画を見終わると、往路を走り終えてから大体2時間~3時間経っている。一気に30kmを走るのはきついが、インターバルがあると楽に感じる。実際少し回復するから故障の危険性も減っている。トレーニングの効果も一気に走っても分けて走っても変わらない。
走って帰る約90分の間、見終わった映画の反芻や考察をするのが楽しい。ここで描写の意味に気づいてまた泣けたりする。本当に贅沢な時間だと思う。
でも端から見ると、おっさんが涙ぐみながら走っているのは気持ち悪い以外のなにものでもない。これからは気をつけようと思う。
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