インナーファクト ランニングエッセイ
ライター江西祥都によるランニングに関するエッセイのシリーズです。
月二回更新予定。
なぜおじさんはランニングを始めるのか
「なぜおじさんはランニングを始めるのか」
SNSでそんな発言をしているひとや、WEBで考察しているひとを目にする。
僕はおじさんになってからランニングを始めて15年弱の生粋のマラソンおじさんだ。走り始めてなかったらおそらく発狂して野垂れ死んでいた可能性が高い。つまり、必要に迫られて、走らないと死ぬと思って走り始めている。
しかし、走り始めた理由を端的に述べるならば「健康のため」だ。
同じく走り始めたおじさん達に理由を聞くと、もれなく同じ理由か、「ダイエットのため」などの当たり障りのない返事がくる。
この議題は、文字通り始めたきっかけを聞いても、表層的なつまらないものになる。本質的な答えを得ようとすれば、「マラソン(ランニング)を続けてみてどう変わったか。なにを達成したか?」が適切だろう。
気が合うおじさんランナーと練習を繰り返し信頼関係を構築すると、そういった「ダイエット目的で始めたけど、それはきっかけにすぎず、次第に自分の深層意識にアクセスできた(欲求に気づく)」というような話を聞くことができる。
Mさんのケースはこうだ。
彼は運動が苦手だったが、ダイエット目的で渋々ランニングを始めた。習慣化に成功し、マラソン大会にも出始める。トレランにも興味を持ち、トレランレースにも出場し、成績も良くなっていく。楽しいのだが、なにが楽しいのか掴めずにいたのは気がかりだった。
難しい100マイルレースを完走してマラソンのタイムも2時間50分を切るまでになる。
運動が苦手なはずなのにどうしてこんなにはまっているのかわからない。
理由を探ってみる。実は彼は、子どもの頃から様々なスポーツをやってきた。卓球、テニス、水泳など、どれをやっても向いていなかった。運動に対して強い劣等感を持っていた。
彼にとってマラソンは復讐だった。いま走り出さなければ、運動に対する劣等感を一生持つことになる。それを達成した今、彼はもう走っていない。
Fさんのケースはこうだ。
彼はダイエットと体力を付けるために走り始めた。Mさんのように習慣化に成功し、マラソンでサブ3を達成した。トレランレースでも上位10%に入る成績を残すようになる。
ビール腹が凹んで腹筋が割れると、何事にも自信が湧いてくる。彼は不倫をするようになる。元々オタク気質だったのに自分でも信じられない。でもこれが本当の欲求だった。いわゆるステレオタイプな「強い男」に対する憧れを内心では持っていたが、直視しないようにしていたのだ。
僕のケースを書く。自分のことだから詳しく書ける。どうせなら傷をえぐるようにすべてをさらけ出したい。
僕は子どもの頃からメインストリームを歩けず、常に脇道にそれていた。サブカルなんて生易しいものではない。みんながファミコンで遊んでるのにセガのゲーム機で遊んでいた。みんながジャンプ漫画を読んでるのに姉が購読してたガロを読んでいた。音楽もみんなはB’zを聞いていたのに、僕は電気グルーヴや戸川純だった。楽器を使う音楽よりも電子音楽であるテクノに強く惹かれた。
そんなことは趣味に過ぎないので問題はない。勉強をしなくても世の中渡っていけるという思い込みは大問題だった。学生の本分をないがしろにしている。尊敬している作家やクリエイターのようになにか秀でるものがひとつでもあれば世の中渡っていけると思い込んでいた。それはある意味正しいのだけど、実情は自分のやりたいことすら見つかっていない。そのくせ自分には才能が眠っていると信じ切っていた。
30歳になると、学歴も職歴もない鬱をわずらった限界おじさんが爆誕していた。残酷にも、なにひとつ才能なんてものはなかったのだ。
20代前半までクラブミュージックの作曲をしていたが挫折した。この頃は小説を書いていたが難航し、担当編集にダメ出しばかりされていた。
服用していた抗うつ剤の副作用に悩まされ、行き着いた先がランニングによる運動療法だった。足りない脳内物質を運動によって出せればうつは治るかもしれない。
問題はランニングを馬鹿にしていたことだった。走るやつなんて狂っている。特に長距離。体育の授業でも一番嫌いだった。スポーツの基本であり王道みたいな面をしているのが一番気にくわない。常にメインストリームを避けている人生だったからなおさら嫌だった。
走ってみると気分が良くなった。抗うつ剤によって、脳内には常にどんよりとした霧がかかっていたが、たちまち霧散する。意識が明瞭になって自分の本心が現れる。小説の文体は変容して筆が乗る。
最初はすぐに脚を痛めていたのに、次第に走れるようになってくる。10kmを1時間で走れたとき、世界に対する認識が変わった気がした。リアルな行動範囲の拡大は、世界がひらけていくような錯覚をもたらす。
踏破できる距離は増えていって、いつの間にか体つきも良くなった。マッチ棒みたいな体型がコンプレックスだったが、体重は5kg増えて筋肉質になっていった。
レースに出始め、タイムを縮めるために練習をする。何事も斜に構えて見る悪癖は相変わらずだった。効率的だと思えた非常識な練習を繰り返す。基本に忠実な練習よりも、インターバル走などの高強度の練習を主体にした。
成果が出たのは一瞬だけだった。直ぐに長引く怪我をした。そして走れずにふさぎこむ。
結局、愚直に距離を踏むような基本に忠実な練習をしたほうが結果を残せた。回り道なんてないと強く肉体に刻み込まれ、分からされた。量がないところには質もなかった。これは挫折した作曲もそうだったし、小説も同じことだった。
今ではランニングは日課になっている。走らないと頭が回らなくて書けない。僕の頭は常に霞がかかっている。走ることで霞から脱出しているのだろう。
ランニングによる有酸素運動で脳内物質が出る。その結果うつが良くなる。それは確かにあるのだろう。でも僕のうつに効果があったのはそんな即物的なものではない。
走るという行為の普遍性が重要だった。それを突き詰めていくと、複雑怪奇にねじ曲がっていた性根はいつの間にか矯正されつつあった。物事を直視し、愚直にまっすぐ進むルートも楽しいと思い始めていた。
今日も走る。
今は随分とまっすぐになったけど、それでも元が歪すぎるからまだ不十分だ。なんか節々がデコボコしている。それを伸ばすために、まっすぐに、前へ進む。これを日々、ひたすら繰り返す。
走るという行為は、僕をこの世に繋ぎ止めてくれる。
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